「~のために」行うことをやめる

 どれほどいいように見えても、「~のために」行うことは、卑しく貪欲なことだ。
誰々のためにであろうとも、何々のためにであろうとも、それが失敗したと思えるときには相手、もしくは事情や何かのせいにする心が生まれるし、うまくいったと思えるときには自分の手柄だとする慢心が生まれるからだ。
つまり、本当は自分のためにだけ行っているのだ。
けれど、純粋に能動的な愛から行われるときには、「~のために」という言葉も考えも出て来ることはない。

『ツァラトゥストラはかく語りき』

ニーチェ,フリードリヒ(2015)『超訳ニーチェの言葉 エッセンシャル版』(白鳥春彦訳) ディスカヴァー・トゥエンティワン.